わたしの生い立ち~青年少期2~
2009年1月19日
「英語教師による転機」
高校は、広島工業大学の学園敷地内にある
私立工大付属広島高校に進学しました。
当時中学生の私には大学のことは何も分からない
状態でしたので、付属普通科校であり、生徒の1/3以内
の成績であれば工大に推薦入学があることが最大の魅力でした。
当時としては偏差値も高くない高校でしたが、
最近では進学校の上位に位置しており、今春も東大、
京大、阪大はじめその他有名大学に多数の合格者を輩出
している様子で誇りに思っております。
私は小学校から中学卒業まで、熱心に勉強したり
部活動に専念することもなく、特段何かに打ち込む
ことも無く悪い素行こそはしないが、決して目立たない
大人しい控え目な少年でした。
自分自身の消極的な心は、幼少期の両親離婚による
片親の偏見や、貧乏生活が原因であると
自分を取り巻く家庭環境に責任を転嫁しており、
全ては他責であり自身の心の責任であることには
気づくこともなかったのです。
母親は7年振りに、
「かっぱ食堂」
を再び開店することとなりました。今後の場所は
南区の住宅地で、依然よりは少し広いお店となりました。
私は高校1年生でした。
広島高校の入学を契機に、私の中でこれまでの
自分から大きな変化を迎えることとなります。
広島高校は私が思っていた安易に大学へ推薦入学できる
付属高校とは少し相違しており、有名大学進学を可能と
する進学校を目指していたのです。
1年生入学と同時に全員テストを受け、成績優秀クラスを
1組とし、その他を5クラスに分けるのです。
何故か私は進学クラスの1組に入りました。クラス編成を
契機に、英語の鍛冶先生に出会えたことで、私の転機を
迎えることとなるのです。
担任は数学の教諭でしたが、なかなか数学には興味をもつ
ことができませんでした。
英語の教諭は鍛冶という、非常に熱血漢のある広大出身の
先生でしたが、生徒の自尊心を上手にくすぐり、成績を伸ばす
ことが非常に上手な情熱的でパワフルな尊敬できる先生でした
(今でも毎年年賀状をいただいております)
鍛冶先生は、毎回授業開始直ぐに、前回授業で学んだ
単語や文章の簡単な小テストを必ず行なうのです。
問題の中身はいつも前回授業で習った内容ですから、
しっかりと復習し単語や文章を完全に暗記しておけば
良い点数は取れるものです。
テストの後には、前回行なったテストを一人づつ名前を呼び、
<strong>教壇で皆の前で成績順に一番の者から手渡しするのです。</strong>
これまでの私の経験では、成績順にテスト結果を渡された
ことはありませんでした。
しかも鍛冶先生は毎回同様の交付方法を行うのです。
私の中では、炎が少しづつも燃え始め、やがて身体全体に拡がり、
今まで眠っていた別の私が少しづつ刺激され目を醒ます様に、
何か躍動するものを感じました。
それからの私の目標は
「英語のテストだけは絶対に負けたくない、クラス一番になる」
に必然的にフォーカスされていきました。
今考えれば、皆なの前で一番の成績を受けといることで、
これまでの自分の劣等感を払拭し、優越感を得ようして
燃えていたものと思います。
自宅では、毎日英語ばかりを復習そして予習も徹底する
様になり、やがて英語の成績だけは全校一番になりました。
深夜1時のラジオから流れる「オールナイト ニッポン!」
放送のイントロ(チャッチャッチャ、チャッチャララ・・・)
を聞きながら、毎晩すすった
「日清チキンラーメン」
の夜食の味は一生忘れられません。
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