ソウル・研修紀行 NO.2

2009年1月22日

「ソウル 2・3日目~観光・射撃・カジノ」
翌朝は、遅い目覚めでゆっくりとホテルで、
バイキングブレックファーストです。

それにしても、深田BLと岡隅店長は、朝から異常な食欲です。
ご飯とパン、味噌汁とポテトハム、ミルクにメロン・・・
(結局彼らには、何でも良いのです)


広い王宮宮殿の散策では、池の水がコチコチに凍っており、
そこはスケートリンク場でした。
寒いソウルで薄着の松田店長は真っ青な唇を振るわせ、寒さを
紛らわせ様と、何やら国広店長に絡んでジャレてました。


土井店長は池に飛び込んで反省しろと、深田店長に指導されて
いましたが、お互いに深い反省が必要でしょう。
そんな、こんなを安部店長は、常にマイペースで、淡々とビデオカメラを回し続けております。

 

ソウルタワー地上480メートルに到着。
猛スピードのエレベーターで最上階です。
(古屋店長はエスカレーターと言ってました)

展望からは、ソウル市内が一望です。幾重にも遠くまで重なる
高層ビル群は、地震の無い韓国らしい町並み風景です。
私達夫婦は、ソウル社員旅行の記念にソウルタワーの絵皿を購入し
ました。


旅先では想い出に残る装飾物を何か購入することとしており、
我が家では既に棚は旅行品で一杯となり、最近ではなるべく、
一つの記念品を購入することとしております。

昨年幹部旅行で訪問した上海でも、上海タワー塔を購入しました。
家内は携帯猫グッズを購入しました
(新ラーメン屋号を猫キチと本気で考えている位、この夫婦は
異常な猫キチです)

 

男子トイレが凄い! 全面ガラスで外の景色に向けて便器が設置され、
ガラス越しに開放発射です。
東閑MGRは感動して

「国ちゃんトイレ行った?凄いよ」

マニアックな安部店長は好きでしょう。


いよいよツアー二番目の楽しみ、明洞にある実弾射撃場に到着です。
今回の社員は全員、実弾射撃は初体験ということで、
全員待合ソファーでは、ワクワク、ドキドキ、不安と期待が交錯し、
興奮と緊張感がピーンと張り詰めておりました。

係員からの説明を受け、耳あて、防弾メガネ、防弾チヨッキ着用で、
3名ずつ射撃場に入ります。私は、場を盛り上げようと

「最後に得点が集計されるので勝負しろ!」

事前に深田店長と城内BLに得点を競わせる様、あおりましたが、
予測どおり、見事にお互い負けず嫌いの二人から、銃口を撃つよりも
前に、火花が散っており、面白くなってきました。

東閑M、安部店長はビデオを回し射撃の瞬間を納めておりました。
一番に出てきた岡隅店長は感激の一言

「まだ手が震えてます・・・」

土井店長は、放心状態でフラフラと出て、暫らくボッーとしていました
(いつも土井店長は、ボッーとしているので誰もおどろきません)

集計結果発表・・・最高得点1位、城内BL・2位国広店長・・・。

そうです深田BLは城内に正々堂々と勝負に敗れたのです
(言い訳ができないので悔しそうでした)
城内BLは、得意そうに胸を張ってましたが、残念ながら腹の方が
勝って突きでていました。


そう言えば、小心者の原田店長は
「僕はやりません、遠慮します」唯一射撃体験を拒んだのです。

私はこれまでに、ショットガンもグアムで数回経験しており、
今回はアドバイザーです。

実弾射撃は、日本では自衛隊や警察入隊しなければ体験できないので、是非お勧めです。

堪能した面々は、当分バスの中で、はしゃぎまくってました。
当然最高得点をマークした城内は得意そうに、ますます小さい体型で
腹を突き出していました(まだまだ人格者への道は遠いと実感)
途中の市場では、韓国のりを大量に買い込みました。
私も社員もセールスには弱い。

ロッテ免税店では、彼女のいる、国ちゃん、松ッサンは、
何やらブランド品を購入しておりました。岡隅店長は奥様への
プレゼント選びで迷っていた様子ですが、今夜のカジノの軍資金の
方が大事な様子で結局は
(私は奥様と喧嘩しても・・何も知りません)
二日目の夜は、豚カルビ焼肉と辛~い熱~いチゲ鍋で

「口はヒリヒリ、汗ダラダラ」

土井店長は頭から大汗をかいて、汚い鼻水を流し、また、
深田BLと城内BLに怒られていました。

何でお前はそんなに汗かくんや(これも意味が分からん)

今夜も、WLの勇者はカジノに現れました。
松田は昨夜のリベンジを胸に!

岡隅店長は奥様に怒られない様に絶対に勝って日本に帰るぞ!
(戦争映画かぶれ)

最後の夜となる今夜は、部長も全員がカジノに参加です
(余り根拠の無い会社理念)

財布に残った最後のマネーを真剣に投資する岡隅店長
(とても悲惨な結末が待っているのに可哀想でしたが)
松田店長のリベンジも、岡隅店長の命を賭けた戦いも、
結果は皆様の想像の通りです。
当夜の勝利者は、東閑MGR一人でした(唯一の連勝です)
1ページ目のクイズ(空港でパフェをお替りした犯人は)の答えは、皆様もうお分かりですね。
腹の突き出た、自称ダイエットしているらしい奴です
(しかもパフェも私のおごり)

 

最高の楽しい想い出と、たくさんのお土産をいっぱい詰め込んだ、
想い重いジェットは、ソウルの厚い雲を一気に突き抜け、5000メートル
に達し、機首を広島へと進めました。
以前、全社員旅行でソウルに訪れたのが約4年間ですが、
今回は少人数による慰労旅行として、また新しい想い出を作ることが
でき、機会を作ってくれた社員に感謝です。
次回は、南方面の暑い南国をマークしております。その機会が一日も
早く実現できる日を今から本当に楽しみにしております。

最高の社員に感謝です。
そしてソウルに感謝です。      
カムサムニダ SEOUL!

わたしの生い立ち~青年少期1~

2009年1月21日

「好きな美術」

 小学3年生の時、母親の経営する中区舟入の小さな
「かっぱ食堂」は閉店となり、私達家族は南区に引越すこととなり、
私は2学期より大河小学校に転校しました。

その後の、市立翠町中学生時代は、身体を動かすことの
苦手な私は、体を鍛える目的で卓球部、次に柔道部に入り
ましたが、やはり運動は不得手で出席率は悪い部員でした。

運動部の厳しい練習

「江口!うさぎ跳び100回!」


先輩後輩の上下社会関係は糧となりました。
中学1年生の担任の野村先生は美術の教諭でしたので、
私は自分の一番好きな得意教科であり、先生と部室で
遅くまで絵画について色々と勉強させていただきました。

学業成績は良い方ではありませんでしたが、美術だけは
いつも通信簿で「10」をもらっており、県の美術出展でも
時々入選し表彰をいただいておりました。

そのせいもあって、自宅では休日には、絵画や漫画を
描いたり、模型造作して時間を忘れることがしばしばありました。
現在も会社では、メニューデザイン構成などについては
好きな分野であり、色々と口出ししております。

わたしの生い立ち~青年少期2~

2009年1月19日

「英語教師による転機」


高校は、広島工業大学の学園敷地内にある
私立工大付属広島高校に進学しました。

当時中学生の私には大学のことは何も分からない
状態でしたので、付属普通科校であり、生徒の1/3以内
の成績であれば工大に推薦入学があることが最大の魅力でした。
当時としては偏差値も高くない高校でしたが、
最近では進学校の上位に位置しており、今春も東大、
京大、阪大はじめその他有名大学に多数の合格者を輩出
している様子で誇りに思っております。

 

私は小学校から中学卒業まで、熱心に勉強したり
部活動に専念することもなく、特段何かに打ち込む
ことも無く悪い素行こそはしないが、決して目立たない
大人しい控え目な少年でした。

自分自身の消極的な心は、幼少期の両親離婚による
片親の偏見や、貧乏生活が原因であると
自分を取り巻く家庭環境に責任を転嫁しており、
全ては他責であり自身の心の責任であることには
気づくこともなかったのです。


母親は7年振りに、

「かっぱ食堂」

を再び開店することとなりました。今後の場所は
南区の住宅地で、依然よりは少し広いお店となりました。
私は高校1年生でした。

 

 

広島高校の入学を契機に、私の中でこれまでの
自分から大きな変化を迎えることとなります。

広島高校は私が思っていた安易に大学へ推薦入学できる
付属高校とは少し相違しており、有名大学進学を可能と
する進学校を目指していたのです。
1年生入学と同時に全員テストを受け、成績優秀クラスを
1組とし、その他を5クラスに分けるのです。
何故か私は進学クラスの1組に入りました。クラス編成を
契機に、英語の鍛冶先生に出会えたことで、私の転機を
迎えることとなるのです。
担任は数学の教諭でしたが、なかなか数学には興味をもつ
ことができませんでした。

英語の教諭は鍛冶という、非常に熱血漢のある広大出身の
先生でしたが、生徒の自尊心を上手にくすぐり、成績を伸ばす
ことが非常に上手な情熱的でパワフルな尊敬できる先生でした
(今でも毎年年賀状をいただいております)
鍛冶先生は、毎回授業開始直ぐに、前回授業で学んだ
単語や文章の簡単な小テストを必ず行なうのです。
問題の中身はいつも前回授業で習った内容ですから、
しっかりと復習し単語や文章を完全に暗記しておけば
良い点数は取れるものです。

テストの後には、前回行なったテストを一人づつ名前を呼び、
<strong>教壇で皆の前で成績順に一番の者から手渡しするのです。</strong>

これまでの私の経験では、成績順にテスト結果を渡された
ことはありませんでした。
しかも鍛冶先生は毎回同様の交付方法を行うのです。
私の中では、炎が少しづつも燃え始め、やがて身体全体に拡がり、
今まで眠っていた別の私が少しづつ刺激され目を醒ます様に、
何か躍動するものを感じました。
それからの私の目標は

「英語のテストだけは絶対に負けたくない、クラス一番になる」

に必然的にフォーカスされていきました。

今考えれば、皆なの前で一番の成績を受けといることで、
これまでの自分の劣等感を払拭し、優越感を得ようして
燃えていたものと思います。
自宅では、毎日英語ばかりを復習そして予習も徹底する
様になり、やがて英語の成績だけは全校一番になりました。
深夜1時のラジオから流れる「オールナイト ニッポン!」
放送のイントロ(チャッチャッチャ、チャッチャララ・・・)
を聞きながら、毎晩すすった

「日清チキンラーメン」
の夜食の味は一生忘れられません。

わたしの生い立ち~青年少期3~

2009年1月15日

「ドラムと生きがい」


高校に入学すると、直ぐに軽音楽部に入りました。
それまでは音楽や楽器には特別な興味をもっていた
わけではないのですが、何気ない好奇心で音楽部に
足を踏み入れた私は、部室の奥で身体の芯まで響き渡る、
高く重いリズミカルなドラムの音に吸い込まれ、気が付いた
時には、一心不乱にたたいている先輩の傍に直立し、
ラテンリズムやロックに身体がシビレルる感動を憶えたのです。

午前の授業が終わり、昼休みに入ると、クラスの皆は
教室で腹ペコを満たす弁当を食べたり、1階の食堂に行ったり、
教室前にあるベランダでは、陽のあたるところで、
はしゃいだりして休憩時間を過ごしておりましたが、
私は在校中の3年間は、クラスの仲間と昼休みを共にした
記憶がありません。

私は午前中の授業が終わると直ぐに、弁当を抱えて、
6階の音楽部室に直行し、一気に弁当を流し込み、休憩時間
ギリギリまでドラムをたたいておりました。
昼時間のドラムと放課後のドラムをたたくことが、
メシより好きでどうしようもないものでした。
楽譜通りに練習するのではなく、自分の好き勝手に
色々なジャンルをたたける最高の環境が私を虜にしました。
秋の文化祭では、ポップスを中心に、トランペット・アルト、
テナーサックス・ボーン、クラリネット・ギターなどで
バンド演奏しました。

体育祭には校庭で演奏し、工大の学園祭には広島市内の
パレード演奏、夏季合宿を行ったりと年中行事も多くあり、
夏休みには、エレキバンドを結成し冷房の無い熱い部屋で
若いエネルギーを燃やし連日練習しました。
高校時代の休日や時間の空いている際には、母の経営する
「かっぱ食堂」で、仕込調理や野菜炒めなどを作り
、母親の手伝いをすることもありました。

調理好きもその影響と思います。

高校時代は、ドラムと英語に明け暮れ、打ち込めるものに
出会え充実した3年間であり、それまで、遣り甲斐を持つ
ことがなかった少年には

「人との出会い」

が大きな転機となり自己成長に繋がりました。
英語を得意としていた私は、関西の有名私立大学受験
をしましたが、英語以外の教科得点バランスが悪く、
見事に志望校は落ち地元の広島商科大学商学部(現修道大学)
に進みました。

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