わたしの生い立ち『幼少時~現在』 記事一覧

わたしの生い立ち~サラリーマン時代8~

2008年8月21日

(アメリカ視察旅行)

平成2年2月には、全国管内選抜で
「アメリカ西海岸研修」として、ロス、シスコ、メキシコ周遊研修に
参加させていただきました。

ハリウッド、ビバリーヒルズの高級住宅街、ゴールデンゲートブリッジ、
本場ディズニーランド、カリフォルニアの青い空と太陽の光を浴びた
オレンジ、サンタモニカの海岸で出会ったローラースケートの若者達、
シスコの同姓婚姻者達、セルフガソリンスタンド、メキシコ偽物銀製品、
LCA大学、米生命保険会社でのディスカッション、溢れるJAPAN製の電化製品と車両・・・

当時の大国アメリカに触れ、大きな衝撃と感銘深いものとなりました。

圧巻は最終日シスコの夜、ディナークルーズによる生バンド、
女性ボーカルから優しく哀愁の流れる歌声「

思い出のサンフランシスコ」に浸り揺られながら、海上から眺めた
シスコの夜景は、眩しく光り輝く別世界でした。

街中のビル全体から明かりが放たれ、雲を突き抜けるビルが幾重にも
連なり、私には10臆ドルの夜景が今でもまぶしい程に、
鮮明に昨夜の様にそのまま映っております。

わたしの生い立ち~サラリーマン時代9~

2008年8月19日

(保険課長とのホルモン焼肉)

松村保険課長は焼肉が好きでした。
特にホルモンと豚耳が大好物で、近所の小さな焼肉店で、
仲間達を囲んでしばしば歓談しました。

官舎に泊めていただくこともあり、本当に最高の良き信頼できる
上司に巡り会えた幸福を憶えることができました。

信頼できる上司に出会えることで、人は人のために頑張ることの
できる素晴らしさを、教えていただいた社会の恩師と感謝しております。

いつまでもお元気で。
(誰にも負けない努力)
私のサラリーマン時代は、実に様々な学びと体験、
仕事観や人生観を思考する機会を得ることができ、これから先の
人生創造の基礎となる糧に、感謝に堪えない郵政時代でした。

人は、人並み以上に本気の努力で仕事に取り組むことでのみ、
自身の役割と成長を確認でき、他人や社会に貢献できる能力の
発見に綱がることを体得しました。

それは「誰にも負けない努力をした」

と自信をもって言えるだけの仕事をした人にしか訪れない
ご褒美であると言えます。

ある一線を越える取り組みが、飛躍的に成長と知恵を増幅させるのです。

そこには「より高い目標を掲げること」

が最大条件であり、

真剣に「志をもって」決して諦めずに挑戦することにあります。

全ての困難も勇気も知恵もそこから派生するのです。

私の足跡~起業への道(カレー専門店時代)

2008年8月15日

(国家公務員退職)

保険営業マンとして中国管内1位の成績を「成し遂げた自信」、そして「公務員という特異体質組織では個人成果は正当に評価されないジレンマ」「何か新しい大きな遣り甲斐のある仕事に挑戦したい」という欲求の鼓動が少しずつ自身の中で増幅しておりました。

私は誰にも負けない成果を残した自負がありましたが、人事昇格辞令は年功先輩に決定した。しかも職場内では多くの同僚から余り信頼されていない2つ年上の先輩でした。

「常に高い夢に挑戦できる仕事、そしてもっと自身を高め、遣り甲斐と生き甲斐のある仕事に就きたい・・・」
私は、同僚先輩そして家内にも相談しないで、35才年収1,000万の職場を捨て、平成3年6月、公務員職に未練はあったものの大きな将来不安を残さず、国家公務員を辞した。

(脱サラ~共同経営事業)

高校時代の同級生が、少数名の社員を雇用し建築内装業を個人経営しており、バブル経済の好影響もあり規模を拡大していた。

彼とは、しばしば中区の繁華街で歓談の機会を重ね、私生活においても家族ぐるみで旅行、食事することが多かった。

彼は今後の事業拡大には強い営業力を必要としており、彼が現場監理、私が営業部門を担うことで意気投合し、建築以外の新業種への進出も準備し、お互い取締役として共同出資し、お互いの頭文字を社名に株式会社を設立した。

彼を代表取締役、私は専務取締役として中区にビル一棟を賃借し新会社は船出した。

設立より3か月を経過した頃になると、お互い経営に関する見解相違による亀裂が生まれ、友人と一緒に今後も共同経営で推進することは得策ではないと判断した私は、その会社から身を引き退職し、共同経営に終わりを告げた。

(新分野への起業)

共同経営の会社から身を引き、無職となった私は、暫くは家内とゆっくりとした時間を共有することとし、新しい仕事の模索と並行し、早朝よりパチンコ店に通い遊ぶ期間が2か月近く続きました。

次の仕事としては、公務員を辞めた理由からも起業しか頭にありませんでした。

幼少の頃より母親が食堂を営んでいた影響、学生時代の喫茶レストランでのバイト歴により外食事業に関心があった私は、外食産業に関するデーター調査、FC業態研究に注力し、多くの県外店舗視察に奔走の結果、中小企業参入における外食事業の将来性を展望し、当時としては未成熟であった小規模のカレーハウス本部とFC加盟契約を締結した。

10年後には広島でカレー店10店舗体制の構築を計画し、1992年5月株式会社エグチフードサービス設立、同年7月広島市佐伯区郊外に25坪32席のカレーハウス1号店を、オーナー店長として家内と二人三脚でオープンさせた。

早朝仕込みから調理、接客、清掃、アルバイト育成管理全てが手探りの中、お客様満足を最優先にすることで、業績は好調に推移した。今でも早朝立ち上げ時、家内の厨房作業容姿を忘れることはありません。
2年後には銀行より高額融資を取り付け、安佐南区に43坪の大型カレー店2号店をオープン、その1年後にはFC加盟を解約し、自社開発のカレーハウス業態に全面転換し4号店をオープン、5店舗体制を視野にFC本部を設立し、会社設立より6年目にはFC店舗を含めて10店舗を超えました。

全て一から学び、物件開発から店舗構築、業者商談、加盟店開発営業、メニュー開発、資金調達財務、採用、人財育成、給与規約など・・家内に任せた経理以外は、資金、総務人事、営業開発、業態改善全てを一人でこなし、郵便局時代を凌ぐ勢いで多くを学び経験しました。経営戦略よりも時間戦略でカバーした草創起業期でした。

(経営者失格)
開業より順調に拡大推移していた全社業績は、開業から7年を超えた頃より、社員教育不足、人材採用不備による人事問題、ノウハウ不足による自社カレー業態不振により会社業績は下降線を歩み、大胆なメニュー改訂も数回行ないましたが、業績は回復せず、利益確保が難しい状況が続きました。

社員の退職により、私は店長として店舗に入店しながら社長業を並行し、FC店舗管理と業態改善、人財採用育成、会社改革を強力推進しましたが、向上しない業績により心身共に疲弊し、将来悲観する窮地を迎えました。

今になって冷静に当時を振返ると、飲食業勤務経験も無く、経営の学習も得ることなく、勢いだけで走り組織拡大を作った、素人経営者として当然の結果であったのです。

続きは、次回のブログに載せております。

私の足跡 ~ 企業改革編

2008年8月1日

(企業改革)

会社の将来展望が見えないトンネルから脱却する為、ブラシュアップによる試行錯誤を繰り返し、苦悩し熟慮思考の末、会社存続に向け大きな決断を下した。

加盟店を率いるFC本部の立場でありながら、断腸の思いで自社カレー業態からの完全転換を決意した。当然の様に知人からは猛反対であった。

私は「しがらみを切らなければ、存続、改革と成長はできない」と決意し、FC加盟店の本部を継続しながら、業績回復と飲食運営を学ぶ為、自己資金による資本増資を行い、2001年4月直営店舗のカレー店を大手FC焼肉加盟店に業態転換した。

その後、関連会社株式会社フードベンチャー設立し、FC加盟店として異業態である焼き鳥店、宅配寿司店、ラーメン店に加盟し、1年余りで新業態6店舗をオープンさせた。

直営カレー店を他のFCに業態転換を並行し、既存カレー加盟店様との調整も図り大胆な業務改革を推進し、自社カレー店は全て業態転換し、加盟店とのFC契約も全て解消した。

会社の存亡に関わる、第二創業としての勇断であった。再編調整業務は全て私が断行していたので、社員は企業改革は重く受け止めていなかった様子です。

複数の異業態FCに加盟したことで、アルバイト育成など飲食店舗運営のあり方、会社経営の進め方について多くを学ぶことができ、初心に還って企業経営に関する書籍に学び、多くのセミナーにも参加しました。

(新業態開発)

カレーFC本部の完全閉鎖から、フランチャイジー運営として企業体質を大きく改善しましたが、その当時より、もう一度自社オリジナル飲食業態を開発し、加盟店様が成功できる強いFC本部構築を強く抱いておりました。複数の飲食業態運営の経験値からの総合判断により、成功するパッケージとして、ラーメン業態開発に着手しました。

休日を利用し遠路まで、夫婦で自家用車の運転を交替しながら走り回り、ラーメン食べるまくりの旅を重ねました。
長崎、宮崎、大分、熊本、博多、山口、岡山、鳥取、島根、大阪、和歌山、京都、横浜、東京、北海道・・・各地のラーメン店舗を見て食べて研究しました。

成功するラーメン業態開発テーマとしては「広島で初めての味で、特徴があり、旨いラーメン」を定義して、研究開発に18か月の期間をかけて、製造、調理、レシピ、店作りデザインを完成させました。

スープやタレ調整の為に、週末には車を飛ばし京都工場の往復を繰り返しました。

2003年5月、ついに自社の新業態1号店として「和歌山らーめん ばり馬熊野店」がデビューオープンした。

その後、FC加盟店として運営していた店舗の業態変更と閉店を行い1店舗のフランチャイジーを残し、全て直営ブランドに転換を行なった。

短期間におけるスクラップ&ビルドを繰り返し、社員育成と企業業績改善を図った。

2004年12月、第二業態「京都らーめん とりの助東海田店」オープン。
2006年4月、第三業態「手ごねつくね&釜めし とりまねき廿日市串戸店」オープン。

(社名変更)

会社経営にとって最も重要である「経営理念」「経営目的」をより明確化させ、関連企業のグループの総合化を考慮し、2005年6月㈱エグチフードサービスからウィズリンクに社名変更した。
2009年2月には、念願であった3階建ての自社社屋を竣工した。

2009年4月、第四業態「濃厚つけ麺 風雲丸立町店」をオープンし、直営店及びFC加盟店を合わせて47店舗となり、4年後100店舗体制を中期経営計画に落としております。

(経営理念目的の追求)

ウィズリンクの存在意義とは、経営目的は何か。
経営目的は、店舗数を増加させることや売上高を拡大することが本来の目的では無いのです。

従業員に夢と未来への希望を与え、人間的成長を促し、地域社会に少しでも貢献すること、そして社員の幸福を実現することにある。

その為の手段として業績拡大があるのであり、自己成長、遣り甲斐、夢を描けない企業戦略は間違いと考えており、仕事の目的は、日々業務を通じて人格形成、人間力を高め、自己の魂を磨くことと定義しております。

ウィズリンクは、「道徳と経営は一体」という思想を育んでおり、社員教育において更なる育成に注力し、「仕事を通じて人間力を高める」ことが、経営者である私の役割であり、好ましい社風を醸成し、企業文化を承継することそが創業者経営者の使命と認識しております。

ウィズリンクは、これからも人財育成を通じて、微力ながら地域社会の貢献に向けて更なる精進を重ねてまいります。

1 2 3 4


記事カテゴリー

最新記事

PAGETOP