わたしの生い立ち『幼少時~現在』 記事一覧

わたしの生い立ち~幼少期1~

2009年4月7日

「生い立ち」

 私は、昭和28年12月27日、慌しい年の瀬に、
広島市中区舟入南町の自宅で、姉二人をもつ末っ子長男として
産声を上げました。

歳春という名前には納得できます。

生家は広めの住居敷地内の玄関先に大衆食堂を開き、
中央に大きな鉄板を設けておりました。

そこから土間を経て奥側を自宅とし大きなかまどが並んでありました。
引き戸を開け少し離れて独身者用の下宿アパートを数棟設けており
数名の若い男性が居住していたと思います。

 

私の幼い記憶では、母親は朝から夜遅くまでお店で
お酒を出したり、裏庭でお酒を作ったり(当時は濁酒)、
下宿人の食事の支度をしたり、一日中働いていた光景が
ぼんやりと残っておりますが、何故か父親が働いていた
姿は記憶にありません。
父親は、いつも居間で昼間から友人と賭け囲碁をやっており、
時には外泊したりと放漫な父親だった様子です。
私は父親から叱られた記憶がありませんが、母親は大変苦労
させられた様子でした。
母親が忙しかったせいもあり、長男として生まれた私は、
年配のお手伝いさんから、かわいがられたことを憶えております。

 

 

「両親の離婚」

私が小学校入学前に両親は離婚しました。
離婚理由は分りませんが、子供心に父親の賭け事と
女性関係のトラブルが原因と察しておりました。
離婚後は、母親と姉と私の4名の生活となり、母親は
女一人で子供3人を養うこととなり、私たちは貧乏生活を
強いられました。

母親は一人でカウンター席のみの小さな食堂を経営し、
私達家族は、店の近くの狭くて安アパート住まいとなり、
生活は一変しました。

その食堂は本川の傍にあることから

「かっぱ食堂」  と名づけておりました。
お店の営業に際し、初めて電気冷蔵庫を開けて感動したことは
今でも鮮明に覚えております。
小学1年生の家庭訪問で「担任の沖先生」が食堂にやって来て、
母親がカウンター越しにビールを注ぎ、先生が旨そうに飲んで
いたことを傍で見ていたことを今でも憶えております。

狭いアパートは、家賃も安いため、陽も余りあたらず昼間でも
薄暗く、昼間でも電気を点灯しなけばならない部屋でした。
狭い台所と一部屋に、冬は家族4人で寄り添って、やぐらコタツに
足をぶつけながら質素に暮らしておりました。

 

続く…

わたしの生い立ち~幼少期2~

2009年4月6日

「他人に迷惑をかけてはいけない」

 
末っ子の私は、寂しさから子犬(ジョン)を飼って
可愛がっておりましたが、子犬が成長するに連れて、
近所の玄関先に入っては、靴やサンダルをくわえて、
傷つけたり壊したりで、母親はいつも近所に謝りに
いっておりました。

子供心に犬の首に鎖を繋ぐのは可愛そうでしたから、
鎖を解いて離していたのでよく叱られました。
やがて、昼も夜も吠えたりするようになり、とうとう母親から、
「ご近所や他人に迷惑をかけることはいけない」
と諭され、知り合いの中華料理店を営んでいる方に
もらって預くことになり、私は離れたくないので、何度も
懇願しましたが引き離されることとなりました。
子供心に、広い庭があればと非常に残念な悔しい思いに泪しました
(引き取り先ではジョンは、餌を当分食べなかったそうです)
母親からは、いつも

「どんなことがあっても人様に迷惑をかけてはいけない」
「絶対に嘘をついてはいけない」
「食べ物は残してはもったいない、バチがあたる」


と、きつく躾けられ教えられました。
当時は母親が怖い存在でしたが、父親代わりも務めた
母親に敬服します。
母親の働く姿から、強さと人に対する優しさ、そして
まじめに生きていく事を教わりました。
母親からの生活訓、躾がお金では得ることのできない
最高の財産を得たと感謝しております。


 
「体験は糧」

 
自宅の傍には本川が流れていましたので、時間があれば、
川に下りて小魚を採ったり、岸に座って夕涼みしながら、
チヌ夜釣りを眺めておりました。
ある時、母親をびっくりさせてやろうと岸に打ち上げられて
死んでいた大きなチヌを、竹竿に吊るして針にひっかけたまま
ぶら下げて、母親に見せたところ、母親は驚きもしないで
全て見透かされました。

川の傍で、四季の移り変わりの中で多くを経験し、
生活教訓からの忍耐も多く学んだ時期でした。

お金のかからない、冬の青海苔を積んだり、夏はハゼを採ったり、
真っ黒になるほど毎日泳ぎました。

学校の正門で業者から「ひよこ」を買って飼育するうちに
ドンドンと大きく成長し、あっという間にトサカが生えて
きたのには驚きました。

 
「手も挙げない消極的な小学生」


私の母親は躾には厳しかったですが
「勉強しなさい」

とは口うるさく言わなかったので、そのお陰で勉強しないで、
友人や動物、川と遊ぶ時間を多くもち、気ままに感性を
磨くことができたと思います。
特に学校では、消極的で自ら進んで手を挙げることは無く、
人と会話することも体育も苦手で、成績も悪かったです。
いわゆる消極的で成績も悪い生徒でした。
顔の色は教室では一番白く、よく顔色が悪いと言われる生徒でした。
唯一、漫画を読むこととが好きで、絵を描くことや工作は
好んで取り組んでおりました。

 

小学生時代の私を知っている友人は、
今の私が信じられないのも当然と思います。

 
続く…

わたしの生い立ち~青年少期1~

2009年1月21日

「好きな美術」

 小学3年生の時、母親の経営する中区舟入の小さな
「かっぱ食堂」は閉店となり、私達家族は南区に引越すこととなり、
私は2学期より大河小学校に転校しました。

その後の、市立翠町中学生時代は、身体を動かすことの
苦手な私は、体を鍛える目的で卓球部、次に柔道部に入り
ましたが、やはり運動は不得手で出席率は悪い部員でした。

運動部の厳しい練習

「江口!うさぎ跳び100回!」


先輩後輩の上下社会関係は糧となりました。
中学1年生の担任の野村先生は美術の教諭でしたので、
私は自分の一番好きな得意教科であり、先生と部室で
遅くまで絵画について色々と勉強させていただきました。

学業成績は良い方ではありませんでしたが、美術だけは
いつも通信簿で「10」をもらっており、県の美術出展でも
時々入選し表彰をいただいておりました。

そのせいもあって、自宅では休日には、絵画や漫画を
描いたり、模型造作して時間を忘れることがしばしばありました。
現在も会社では、メニューデザイン構成などについては
好きな分野であり、色々と口出ししております。

わたしの生い立ち~青年少期2~

2009年1月19日

「英語教師による転機」


高校は、広島工業大学の学園敷地内にある
私立工大付属広島高校に進学しました。

当時中学生の私には大学のことは何も分からない
状態でしたので、付属普通科校であり、生徒の1/3以内
の成績であれば工大に推薦入学があることが最大の魅力でした。
当時としては偏差値も高くない高校でしたが、
最近では進学校の上位に位置しており、今春も東大、
京大、阪大はじめその他有名大学に多数の合格者を輩出
している様子で誇りに思っております。

 

私は小学校から中学卒業まで、熱心に勉強したり
部活動に専念することもなく、特段何かに打ち込む
ことも無く悪い素行こそはしないが、決して目立たない
大人しい控え目な少年でした。

自分自身の消極的な心は、幼少期の両親離婚による
片親の偏見や、貧乏生活が原因であると
自分を取り巻く家庭環境に責任を転嫁しており、
全ては他責であり自身の心の責任であることには
気づくこともなかったのです。


母親は7年振りに、

「かっぱ食堂」

を再び開店することとなりました。今後の場所は
南区の住宅地で、依然よりは少し広いお店となりました。
私は高校1年生でした。

 

 

広島高校の入学を契機に、私の中でこれまでの
自分から大きな変化を迎えることとなります。

広島高校は私が思っていた安易に大学へ推薦入学できる
付属高校とは少し相違しており、有名大学進学を可能と
する進学校を目指していたのです。
1年生入学と同時に全員テストを受け、成績優秀クラスを
1組とし、その他を5クラスに分けるのです。
何故か私は進学クラスの1組に入りました。クラス編成を
契機に、英語の鍛冶先生に出会えたことで、私の転機を
迎えることとなるのです。
担任は数学の教諭でしたが、なかなか数学には興味をもつ
ことができませんでした。

英語の教諭は鍛冶という、非常に熱血漢のある広大出身の
先生でしたが、生徒の自尊心を上手にくすぐり、成績を伸ばす
ことが非常に上手な情熱的でパワフルな尊敬できる先生でした
(今でも毎年年賀状をいただいております)
鍛冶先生は、毎回授業開始直ぐに、前回授業で学んだ
単語や文章の簡単な小テストを必ず行なうのです。
問題の中身はいつも前回授業で習った内容ですから、
しっかりと復習し単語や文章を完全に暗記しておけば
良い点数は取れるものです。

テストの後には、前回行なったテストを一人づつ名前を呼び、
<strong>教壇で皆の前で成績順に一番の者から手渡しするのです。</strong>

これまでの私の経験では、成績順にテスト結果を渡された
ことはありませんでした。
しかも鍛冶先生は毎回同様の交付方法を行うのです。
私の中では、炎が少しづつも燃え始め、やがて身体全体に拡がり、
今まで眠っていた別の私が少しづつ刺激され目を醒ます様に、
何か躍動するものを感じました。
それからの私の目標は

「英語のテストだけは絶対に負けたくない、クラス一番になる」

に必然的にフォーカスされていきました。

今考えれば、皆なの前で一番の成績を受けといることで、
これまでの自分の劣等感を払拭し、優越感を得ようして
燃えていたものと思います。
自宅では、毎日英語ばかりを復習そして予習も徹底する
様になり、やがて英語の成績だけは全校一番になりました。
深夜1時のラジオから流れる「オールナイト ニッポン!」
放送のイントロ(チャッチャッチャ、チャッチャララ・・・)
を聞きながら、毎晩すすった

「日清チキンラーメン」
の夜食の味は一生忘れられません。

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